「Bar来日」
舞台は日本に移ります。
1800年代も中盤を過ぎたあたりとなると海外渡航も頻繁に行われるようになり、
外国のお客様を迎える宿泊施設「ホテル」の有無がその国の格と文化水準の「ものさし」となっていました。
1860年、横浜に木造2階建の建物に、客室・レストラン・理容室を備えた施設「横浜ホテル」が開業しました。
1860(万延元年)開業 横浜ホテル
当時の常識として最先端であると同時に外賓をおもてなしするのに最適とされるヨーロピアンバー形式の飲酒スペースをホテルに設けることは、
ある意味国際基準とされていました。
逆に言えば、Barも無くてホテルとは名乗れまい、といった具合に。
同ホテルにもスヌーカー(ビリヤードのようなテーブルゲーム)を備えた飲酒可能な娯楽室が造られ、
この空間をもって日本初のBarとする見解が常識とされています。
が、それは確かに「初」であるかもしれませんが、ご覧の通りの建物なのに加え、特に外国の一部特権階級様を相手にした特殊なスペースは、
一般人が利用可能な施設であるわけもなく、あくまでも「日本では初めてである」という事実と記録が残されているだけで、
これをもって「Bar来日」と説くにはいささか無理があるように思えます。
日本という土地ではありますが、そのごく一部に閉鎖的な外国が出来たようなもの。
ともすれば、当時の庶民はこの存在自体すら知らなかったのではないでしょうか。
間もなくして洋酒の輸入貿易がスタートし、1870年に誕生した「横浜グランドホテル」では、
現在も愛され続けているカクテル、「バンブー」や「ミリオンダラー」が創作され、
それまでわざわざ函館から輸送し確保していた氷も、製氷技術の開発により幾分入手が容易となり、
それなりにBarを運営するに必要な下地は出来つつあったとはいえ、それでもまだまだ当時の日本人にとってあまりに縁遠い存在であったことは確かです。
1870(明治三年)開業 横浜グランドホテル 絵は1899に改装されたもの
ただ、以上の流れを根拠として、日本のBar文化は横浜から開花したとする声は現代に至るも定説として語られています。
では、一般に認知され、日本人こそが利用可能な「日本のBar第一号」と表現するに相応しい存在となると、
1911年、松山省三が同志と共に銀座に開店した「カフェープランタン」とする意見が一般的です。
1911(明治44年)開業 カフェープランタン
文人や画家達が集い、珈琲や酒を傾けながら芸術談義に華を咲かせる粋でハイカラなフランスの「カフェー」を日本に再現すべく造られた店舗は、
必然的に取扱商品も舶来のそれで統一され、未体験の飲食習慣と共に文化の薫りと雰囲気を楽しむ嗜好性の高い飲食店として登場します。
酒に特化していたわけでもなく、これに先行することおよそ10年ほど前からビアホールなど洋酒を取り扱う店舗等がすでに存在していたにも関わらず、
そもそもBarとは名乗っていないカフェーという店舗をもってBarの始祖であると言われるのは、
単に舶来の珍しい酒を飲ませる飲食店に留まらず、あくまでもコンセプトやイメージの部分を重要視した上で、
現代のBarにも通じる「大人の社交場」としての雰囲気そのものが斬新にして画期的であったと評価されているからでしょう。
肝心の人気と認知度の方も、直後より多くの類似店が雨後の筍のごとく乱立したとする資料から推測できるように相当のものであったと考えられます。
Barとして特に注目しておきたいのは「カフェープランタン」の程近くに開業した「カフェーライオン」で、
プランタンと同年に開業した カフェーライオン
ビヤホールをメインに余興も楽しめるという、現代風に言うところのエンターテインメント型フードコートのようなニュアンスが強い存在でしたが、
同店のセールスポイントの一つとして「バーテンダー」が居ることを記している資料があることからも、
当時においては「カフェー」と「Bar」の境界線も曖昧に、
「バーテンダー」はもちろん、「洋酒」「カクテル」「珈琲」「洋食」といったアイテムから、
それらを楽しむ「スタイル」あるいは「文化」と称して差し支えないほどの情報と形式が、
何もかも一緒くたに導入され受け入れられたという、華やかでありながらも混沌と表現するに相応しい様子がうかがえます。
が、しかし、それら全てが一元的に正しく理解され浸透していった訳ではなく、
その後においても皆が皆、同じベクトルで進化、発展していった訳でもありませんでした。
その他大勢のそれ、大きな視点から見た「カフェー」なる新形態の飲食店は、少しばかりおかしな方向へと歩み始めます。